四の章  
北颪 きたおろし (お侍 extra)
 




     地上の穹



 少しずつ少しずつ、朝晩の冷え方が鋭さを増してゆく。寝起きしているのが雪深い土地の農家なだけに、屋根は茅葺き、窓もさして大きいものは刳
(く)られておらず。障子戸では明るくとも防寒対策にはあまりに頼りないからだろう、寒い時期に入れば頑丈な板戸を厳重に締め切ってしまうため、唯一の可動部である連子窓の蓋をしてしまうと、吹きつけ吹き込む風雪や寒気は確かに防げるものの、同時に陽光もまた遮ってしまうのが難点だったりし。
『その点はお任せください♪』
 例えば、すぐ傍らに据えた南を向いた白い大壁に反射させることで、北側の窓からも十分な明るさを取り込むことが出来るように、工夫のしようは幾らでもあるとかで。明るさは通すが寒気は通さぬ素材での、高窓や天窓を研究中ですと、その身が相当のこと侭に動かせるようになって来た工兵さんが、自信満々で胸を叩いていたのをふと思い出し、

 「…。」

 とはいえ、まださほど、震え上がるほどではないと感じたのは。まだまだそうまでには寒さも至らぬ頃合いだから…というよりも。じんわりと温かい懐ろ猫の存在が、粗末な煎餅布団の中、懐っこくもその身をこちらへと寄せていたからだろう。随分と痩躯で、しかも安らかな眠りの中にあっては、その肩も背条も力なく萎えてのいかにも頼りなく。勘兵衛ほどの屈強な長身でなくとも、その身の丈のほぼを胸元へとすっぽり抱き込むことが出来そうな青年であり。こちらの二の腕へ頬をちょこりと載せていて、手入れのいいふわふかな金の綿毛が、こちらの顎先や首へと触れて少々くすぐったい。夜明けの寒さを慮ってのこと、事後にそのまま寝付いた身へ、寝間着にしている小袖を羽織らせてはおいたものの。着ならされた柔らかな生地は、すぐ下の温みやそれを放っている身の、殊更に懐っこい肌合いをそのまま伝えて来。
“…。”
 このように直に感じるところの、誰か他人の体温や肌の感触というもの。まさかにこの歳になるまで、全くの全然知らなかった勘兵衛ではなかったが。こうまで愛しくも優しくて、こうまで安堵を齎すものだったということをまで。知ってはいても覚えてはいなかったようだと思い知る。ましてや、日頃は寡黙なまま どこか冷然とした風情で通している久蔵が相手なだけに、こんなにもまろやかな温みを分けてくれようとは思いも拠らず。

 「…。」

 間近に寄り添う無心な寝顔を、飽かぬまま しばし眺めてのそれから。揺り起こすことのなきよう、そろりと衾からすべり出る。名残り惜しげにもう一顧、その口許が…微笑ってまではいなかったものの、むずがりの“への字”ではないことを確かめると。やっとのこと気が済んだか、上掛けを直してやりつつ視線を外し、立ち上がる勘兵衛であり。






  ◇  ◇  ◇



 曇天にも似た黎明の、曖昧なばかりな空へ向け、次々と放たれた目映い矢のようだった朝一番の陽光も。今はもうすっかりと、天穹すべてを塗り潰すまでに落ち着いており。そんな明るい空を仰ぎつつの歩みにて、辿り着いたは、もはや船着き場ならぬ 停留所扱いの翼岩。そこには丁度、ついぞ見慣れぬ型の空挺が、その駆動音を徐々に低めつつの停止状態へ入りかけており。こういった乗用機関と言えばの大戦時代にも見たことのない型で、とはいえ、武装を見せてのいかにも好戦的なそれでもない。運搬船と大きさは同じくらいだが、少々縦長の流線形で、最も異なる点は甲板にあたる操縦席に幌
(ほろ)がついているところ。しっかりと固定された屋根がついての囲うタイプではない、いわゆる“コンバーチブル”とかいう開閉収納式らしかったが、それでも操縦者や搭乗者が外気に触れずにいられる程度の頑丈さ。高速艇の船体は、出来るだけ空気抵抗を受けない薄さのものがいいということもあり、こうまでご大層な幌をつけた機はお初に見る勘兵衛で。そうは言っても、

 「…勘兵衛様?」

 誰が乗っているのかは先刻承知。機関が完全に停止してから、側面部の、囲いがある時の出入り口なのだろう大きめのジッパーがざりざりと鳴りつつ引き上げられると。テント地のように頑丈な幌が刳られて開き、中から搭乗者が顔を覗かせる。遠出用のしっかりした外套を羽織った七郎次であり、彼の側こそ勘兵衛を見やって…どこか意外そうなお顔をして見せていて。
「わざわざ迎えに来てくださったのですか?」
「まあな。」
 実を言えば、昨日の宵、風呂を浴びに来た平八から、この時刻に七郎次が到着するとの旨を聞いていた。久蔵は丁度、裏手の焚き口にて五郎兵衛から風呂焚きの加減を教わっている最中だった間合いのことであり。そのまま彼の耳には入れずにいたらしき勘兵衛の思惑はさておくとして。移動途中に知らせが入ったのかと平八に問えば、恵比寿顔をほころばせて“いいえ”と笑い、
『移動しながらの通信は、まだまだ不安定ですので。』
 出来なかないが、大気の状態によっては相手へ受信されない恐れも大有り。ここ数日ほどはいよいよ到来の寒気の影響か風も強めなため、電波妨害作用のあるナノ物質の拡散もひどい筈。そんな中だってのに、届くかどうかが危ういことを、あのシチさんがするなんてあり得ませんてと紡いでのそれから、
『今から虹雅渓を発ちますという連絡でした。』
 そうと言い足した彼であり。だが、となると、
『明日の早朝には着くという連絡だということは、昨日の今頃か今朝早くにでも届いてなければおかしいのではないか?』
 どんな馬力の空挺を駆ったとしても、都合2日弱はかかる行程だけに。途中で足を止めての中間報告だったならともかく、今こちらを発ちますよという知らせがこんな間合いで届くのは尺が合わないにも程がある。おややぁと首を傾げた勘兵衛へ、さもありなんと理解は寄せつつ、されど、
『ですが、うっかりとお知らせし忘れていたんじゃありません。』
 くすすと微笑った平八にしてみても、七郎次と電信でのやり取りをしたその時は、勘兵衛と同じように、話の不整合へ“う〜ん?”と首を捻ってしまったそうで。その答えが、他でもない、目の前に佇む空挺そのものだったりし。

 「それが新しい高速艇とやらなのか?」
 「ええ。とんだじゃじゃ馬ですが、斬艦刀に比べれば安定性は抜群ですよ。」

 虹雅渓に知己もおり伝手もある関係から。時折、伝令やら物資の移送やらを目的として神無村と虹雅渓とを往復する彼らは、その道程の途中、地底の水路沿いに“禁足地”という格好で住処を構える式杜人らとも、ある意味で縁があり。お互いにそうそう深く踏み込まず、余計な干渉をし合わぬという暗黙の了解の下、地下水脈という…荒野よりずんと安全で人目にもつかぬコースを通過することを許されている侍たちだが、

 『なんでしたら、超高速の空挺を提供しましょうか?』

 雪が降ったら行き来は適わぬかと思われていたものが、式杜人らが思わぬ提案をしてくれた。彼らもまた、あの洞窟内の禁足地以外の足場、殊に神無村間近にて撃沈された本丸の主機関周辺を禁足地化する作業にあたっての中継地、橋頭堡のようなものが欲しかったらしく。言わば持ちつ持たれつという提案であり。しかもしかも、

 『この空挺、実はそちらの技術者殿から頂いた、
  工夫や工法が大きに取り入れられてもいるのですよ。』
 『………はい?』

 そちらという括りで仲間内と見做されていよう人物の中。技術者といえば、工部匠の正宗殿か、闇医者だが規格外の機巧躯に明るい弘安殿か、あるいは…

 「…平八が?」
 「らしいですよ。…ああ、ただ。」

 いつの間に式杜人との連絡を通じておったやら、今の今まで内密にしていたというのは、どんな意向からであれ少々由々しきこと…という叱責が。もしやのことでも勘兵衛の口から飛び出す前にと、七郎次がはんなり微笑う。
「ヘイさんが直接彼らと協力し合った訳じゃあありません。」
 正宗殿とやり取りしている電信の中継地をね、あの撃沈地にも据えたおり、その仕組みに彼らの工部匠の長がいたく感心したらしくって。乗り物レベルなんていう大きな工作だったら、自分たちへご依頼くださいなと話を持ちかけたもんだから。

 『そうさな、それじゃあこんなもんは作れるかい?』

 腕試しをかねて正宗殿がほいと見せたのが、
「ヘイさんが設計図を引いてた新しい機関のだったそうでして。」
 色々と…素材とか工作器具とかに希望推定の多い代物。よほど整った設備のあるところで、素材も資材も人手も電気動力も潤沢な環境下でないと実物を作り上げるのは無理という。理想というか希望というか、持ち得る限りの知恵や知識という“贅”を尽くして、頭の中にだけ築き上げたってクチの図面をね。前にヘイさんが引いてらしたの、たまたま持ち合わせておいでだったもんだから。こんなもの作れるものかと音を上げさせるつもりのからかい半分、提示したところが、

 「作り上げてしもうたと?」
 「そういうことならしいです。」

 正宗殿が大おとななりの遠回しに干渉を断ろうとしたというのが、判らない彼らではなかったのでしょうが。話の持って行きよう、その方向性が不味かったと言いますか。
「多少は意地もあってのことなのでしょうけど、敵もさるもの、形にしてしまおうとは大したもんですねぇ。」
 どっちの心意気も判るのでと、七郎次は苦笑するばかり。やはりホバー式なので荒野どころか雪原や湖面だって渡れるその上、平八考案の特殊な機関は、これまでの倍は速度を出せるのに燃費もよく。そのせいか、燃料タンクや冷却器などなどを さほど大きくせずとも遠距離稼働が可能だったり、他にも色んなところへの負荷が少なくて済むお陰様、安定性が抜群で。

 「そこで今回、試験運行させていただいた訳ですが、まあ速い速い。」

 日頃の生活の中では、そうそうここまでの速度が要るだろう急ぎの用などなかろうけれど、安定性のほうは十分買えますよ。この馬力なら、雪が多少深くなっても行き来が楽に出来そうだと、にっこり笑った古女房。ホバーの機上に立っている勇ましさのせいか、それとも、いかにも防寒性の高そうな、かちっとした上着の、立てた襟で首元をしっかと封じている凛々しい恰好のせいもあってか。そんな殺風景な装いでありながら、だのに健やかに啖と笑うところ、かつての…大戦中の副官殿の勇姿が、そこへと重なって見えたような気がした勘兵衛だったりし。
「勘兵衛様?」
「…いや。」
 そういえば、この彼とはそんな戦さ場で、生き別れて以降の十年余、ずっとお顔を合わせずにいたのだったなと、今更ながらに思い知る。自分の上にもそうだったように、彼の上へも。長かったような、それでいてあっと言う間だったような、そんな歳月がそれぞれ別々に流れゆき。そんな二人が再びこうして共に在るための、条件というか背景と言おうかが、またしても“戦さ”という殺伐とした非常事態の極みであったというあたり。一体どのような因果・因縁がある自分たちなのだろかと、ふと感じたらしい勘兵衛の様子に、
「…。」
 何をどう想ったのかまではともかくも、七郎次の側でもまた、そんなしみじみとしたお顔をなさる御主にはついつい見とれ。そして、

 「…。」
 「…。」

 かつての主従が二人して、渺々と寂寥たる荒野の風景とそこを渡りゆく風の唸りに、気を揃えたかのように、意識を馴染ませてのしばし佇んでいたけれど。

 「デッキへ入りませぬか? 何かお話がお有りなのでしょう?」

 到着時刻が判っていても、元の詰め所、あの家で待っておればいいものを。彼ではなくの、例えば…七郎次が発した電信を受けた平八が、この高速艇への関係者でもあるからと、出向いてくるならともかくも、選りにもよってこの壮年殿が、こんな早朝、しかも独りで足を運んだからにはと。そこまでを察することが出来るのは、彼自身の冴えた機転か、それとも…かつての日々にて大きに要りようだった、阿吽の呼吸や上官殿への勝手というもの、蓄積が色濃く居残っていてのそれだろか。七郎次がそんな言葉をかけたのへ、勘兵衛もまた うむと微かに頷くと、風に躍る蓬髪をごそりと掻き上げ、艇へと上がる梯子へと足を掛けたのだった。





  ◇  ◇  ◇



 操舵席でもある船橋部は、進行方向に風防ガラスの嵌まった窓が大きくとられている他は、四方をすっぽりと幌に覆われており。さすがにそうそう広々とまではいかぬながら、向かい合っての言葉を交わし合うには丁度いい空間で。
「…。」
 招き上げはしたものの何をどう切り出せばいいものか。相変わらずの泰然としている勘兵衛の様子に、だというに急かされでもしたものか。幌の外にて遠く近くに唸る風籟を幾つか数えてののち、ついのこととて訊いていたのが、

  「久蔵殿は?」

 何の気なしに思いつき、いかがされましたかと尋ねれば、
「まだ寝ておった。」
「そうですか。」
 あっさり切り返されて、こんな早朝のこと、それもそうかと…場つなぎだとしても何でそんな詰まらぬことを訊いたものかと。却って内心で自嘲しかけた七郎次の鼻先へ届いたのが、

  ――ふわり仄かな とある香りだったので。

 ああそうか、これの先触れを拾ったからかとやっとの得心がいく。髪の手入れに使うそれ、椿油の甘い匂い。自分のまとうものとは微妙に違う、純粋に椿の香りしかしない無垢な匂いであったから、
“そうか、久蔵殿が。”
 この精悍な御主からはまるきり異種の残り香が匂い立つほど、直前までずっと間近にあった彼なのだろと。ああそうかと察しがいったと同時、何とも言えぬ感慨に胸が満たされる。彼らの間にたどたどしくも育まれつつあるのだろう、甘やかな情の温みと切なさへの祝福と、それから。これは何というものか、ほんの僅かほど感じる不安定な何か。豊かな想いの中に紛れた、つきつきと痛くもある何か。
「…。」
 人にも機微にもなかなか慣れず、ただ、この自分には文字通りのすりすりと擦り寄ってまで懐いて下さった、そりゃあ かあいらしいお人。でもでも、その前身は…戦さという歪んだ時代が生み落とした 刀の申し子にして、死神の使いとまで呼ばれていたという、南軍の紅胡蝶。

 「…純なお人ですよねぇ。」

 皮肉な話、最強至高を目指して開発されたはずの機巧では到底追っつかぬレベルで、繊細微妙な勘を働かせ、風を読み。生身の身体で穹を滑空した、白兵戦のエキスパートたちのその中でも、特に生え抜きの英才幼年候補生。全身全霊を鋭く研ぎ澄まし、死の淵へ落ちたくなくば相手を叩き落とせとの鍛練をのみ積むことで。やがて…どんな不意打ちで襲うやもしれぬ“死”を恐懼するよりも、そんな恐怖を齎す存在かも知れぬ敵が、制覇凌駕に手を焼くだろう難敵であればあるほど欣喜に身が震えるような。極めつけの冷酷さを常のものとするよう特化させられた、とんでもない剣鬼が生まれたその末に、紅蓮の魂を冷ややかに冴えさせて、蒼い天穹をさぞや鮮やかに翔ったのだろうと思われて。

 “人や物へ、斬ること以外での執着を持ったことがなかったのでしょうね。”

 そんな人性となったのも、彼の生まれや行いのせいじゃあない。強いて言えば時代のせいだ。戦さにしか使えぬが最強という“兵器”扱いをされ、彼の側からもそうであらねば生き残れなかった。そんなまで非情で荒
(すさ)み切っていたほどに、何もかもが狂いかけてた時代のせいだ。そしてそれは、贖(あがな)われることのない…その憤懣をぶつける相手さえいない不幸とも言えて。あれほどの大戦がいきなり終焉を迎えたその途端、寄る邊(よるべ)を失くした侍たちの多くが、地に落ちて浪人に落ちぶれるしかなかった戦後の十年。彼はその…侍としては至高だが、人としてはあちこちが欠けた、何とも不完全な心を抱いて。ますますのこと偏った存在となりながら、少しずつ世の停滞に呑まれかけていたのだろうに。

 “勘兵衛様に出会ってしまったことが…。”

 まだこんな練達がいたのだという方向で、久蔵にとってのこの世界は まだまだ捨てたものではないとするような。剣鬼だった彼を再び目覚めさせてしまった、物騒極まりない感触が始まりだったのはいただけないものの。どこへでも羽ばたける翼を持つ身であることへの自覚、このまま育ててやりたくてのそれで、

  「久蔵殿の選択肢の一つに、なろうとしておあげなのでしょう?」

 差配の凋落をのけても、帰るところを持たぬ人。アキンド側からこちらへと、その居場所を移したのは、自分の意志からのことでもあろうから彼とて異存はなかろうが。その先の話として…明日へと生き抜くすべを全く知らない、何ともかんとも困ったお人。どこかの街角で、ただただ空ばかり見上げて後生を過ごしかねぬ彼であり。その点だけを言うならば、具体的な宛てがなくとも希望に背を押されて歩めていた勝四郎以下かも知れず。そんな久蔵が、足元不安なその上、考えように柔軟さも蓄積もないまま、自分で自分を追い詰めてしまわぬようにと。そんな構えでおいでなのでしょう?と口にした七郎次へ、

 「かいかぶるな。」

 静かな声が端と返される。怒るでなく、むしろ仄かに失笑を滲ませて。勘兵衛の表情は至って穏やかなそれのままであり、
「そんな滸がましいことは思うてもおらぬさ。」
 見澄まされたことを癪だと感じてというより、人への慈愛なぞ持てるような偉そうな身ではないとの想いから。それでとあふれた反駁だろうが、
「ええ、そうでしたね。あのお人の鮮烈なまでの凄まじさに惚れてしまわれただけというのが、本当のところでございましょうよ。」
 真剣を構え合っての実戦ならばともかくも、こんな“言葉戦さ”ごとき。それもあのお人とこの御主にまつわることで、言い負かされてなんておれやせぬということか。くすすと微笑っての畳み掛け、つけつけと言い返した古女房が、

 「でしたら、今からでも思って下さい。」

 お顔こそはんなりと微笑ったままだが、声の張りには真摯な響き。
「あのお人は本当に何にも知らないのですから。」
 それだとて自分で選んだことかも知れないが、剣鬼であることしか知らず教わらずの、他はほとんど足らない身。侍としての価値観の方を優先し、それを貫き通すため、立ちはだかった長年の朋輩さえ斬った彼であり。これもまた、あの大戦へと関わった年頃や度合いの差というものか。様々な絶望と向き合ったことから、表向きは強かに叩き上げられたその身へ、秘やかに…だが深々と、罪色を染ませての後ろ向きでいた勘兵衛とは大きく異なり。しがらみも穢れも知らぬまま、己の思うところへのみ従っての、鮮烈なまでに純粋に、ただただ苛烈なまでに真っ直ぐな久蔵。そんな彼であるだけに、

 “恐らくは今初めて…。”

 右腕への例の深手を負った折、勘兵衛から置いていかれるのではないかと、それはそれは心細かったことの裏返し、痛々しいほど苛立っていた彼を知っている。誰かとずっといること、一緒にいたいと思うこと。積極的にそうと感じたなんて初めてのことだとしたら? 勘兵衛から勝負の決着をあずけられ、それへの執着をしたことで、人への執着というものが、そういう接し方があるのだということ、初めて経験なさったのだろう彼だとしたら。

  ―― そしてそして、そんな彼へ。

 純粋なところへ眩しさを感じての惹かれたその延長。放り出しては生きてゆかれぬだろう、そんな危うさを案じてのこと、
「あのお人に、もうもうすっかりと搦め捕られてしまわれたのでは?」
と、揶揄するように咲き笑う七郎次であり。

 “勘兵衛様にも重しは必要ですからね。”

 逃げることも、誤魔化したり麻痺させることも選ばず知らず。自分が屠
(ほふ)った、あるいは救えなかった多くの無念を、馬鹿正直にもその背へ負うて。疎かに捨て置けぬがため歩き続ける…などという、頑なな生き方しか出来ない、それはそれは不器用なお人だから。久蔵殿という生者への支え。そんな形での健やかなしがらみも、一つくらい負っていただかなくてはと思ってのこと。ここぞとばかりの強腰にて、言って差し上げた、元・副官であったのだけれど。

 「結果としてその迷いに苦しんでもおるようだがの。」
 「そのようで。」

 すかさずのお言いようへ、ですが、殻を破って踏み出すためにはそのくらいの痛みは必要でしょうよと。外套越し、自分の冷たい左腕を七郎次はこそりと見下ろす。勘兵衛を見失うよに別離したこと、忘れるなと責めるかのよに。大切な六花ごと失くしてしまった左腕。そんな腕の代替へ、平和な世には必要ない筈な武器を敢えて仕込んだ彼だったのは、
“今にして思や、未練がましいコトこの上なしでしたよねぇ。”
 他でもなくの我ながら、愚かしく思えてしようがなかった。そんな痛さを今また、胸の裡
(うち)にてしみじみと述懐しつつ。その一方で…気がついたのが、

 「…勘兵衛様、余裕ですね。」
 「? 何がだ?」

 不意な言われようだと、怪訝そうなお声を返す御主ではあったが。誰が何がという部分はわざわざ言わずの、こうまで主語なしの会話。いくらツーカーだと言ったって、通じちゃあおかしい、はたまた、おかしいと思わなければおかしいやりとりが、するりと挟まってはいなかったかしら?

  ―― 久蔵殿が、何へどう、戸惑っておいでなのか。

 先日、やはりこうして七郎次が虹雅渓から戻った折に、話題にしたことがありはしたものの。そんな他愛ないことをと、その場限りの一笑に付したはずだのに。自分も心に留め置いておきながら、それ以上の意外さでハッと胸を突かれてしまった彼であり。座面の高いスツール型の操縦席のもう一方へ、腰掛けるというよりも腰あたりを凭れさせての立ったまま、

 「よほどにお主を気に入ったと見える。」
 「………勘兵衛様。」

 他の者との別離には、予期さえせずの意にも介さぬ久蔵が、七郎次との先行きにだけは、彼のこれまでの生涯の中、大戦中でさえあり得なかったほどの切実な不安を抱えている。そして、そんな状態の彼だということ。恐らくは、誰よりも先に気づいてて、本人よりも理解している勘兵衛様なのでは? だとすれば、なんてまあ狡いお人だろ。そこまでお見通しで、なのに、自分へはこうしてさりげない示唆をしておこうとなさった反面、あの不器用さんへは依然としてわざわざ説いてやらぬとは。

 「よろしいのですか?」
 「何だが?」

 そら途惚けてみせる彼へ向け、ですから…と、たじろぎつつも躊躇を見せた古女房。言葉を選ぼうとしてだろか、少々言い淀んでのそれから、

 「他の男のことで、煩悶させといて。」

 言いようこそ、ちょっとばかり遠回しの戯れごとめかしていたものの、

  ―― まさかまさか、何となればあなたをも見切っていいとの構えですか?

 久蔵殿が…もしやして七郎次の方を選んでしまったならば、それもそれだと。まさかにそこまで、久蔵の思うように処してやろうとお思いだったら。それはそれで安んじていてはいけないことではなかろうか。勘兵衛も久蔵も、腕のほどはもとより、その孤独な魂までもが。お互いを認め合える対象として、やっと出逢えたお人たちだと思うから。だからこそ、双方ともに在ってほしいのに。胸を騒がせてのお答えを待てば、

 「あやつは、儂から離れぬことを前提に考えておるからの。」
 「…言いますね、自信満々と。」

 自分の言いようを棚に上げ、眇めると色みの濃くなる青玻璃の目許、わざとらしくも細めて見せて。こんな時に戯れ言をお言いなら、それこそ叱りますよと言わんばかりのお顔になった七郎次だったものの、

 「寄る邊なき身と自らを認めても、
  それが理由で立ち尽くすばかりになるほど小さな器ではあるまいさ。」
 「…っ。」

 少しばかり眸を伏せて、顎にたくわえたお髭をなでるは、内着の衿元から覗かせた懐ろ手の指先で。こんな早朝でも白い手套をはめている彼なので、その下の六花はあいにくと見えないものの。ごつりと大きく持ち重りのしそうなその手の頼もしさへと、感慨深げな表情の重厚さへと、思わずのこと見惚れてしまう。憎からず想う対象だと、惚気まがいの言を紡いだその余韻を断ち切って、あくまでも至って冷徹な目で断じてのお言いようで続けた彼だのに。興冷めするどころか、言葉づら以上に誇らしげに語っているようにしか聞こえなくって。

 “まったくもう、素直じゃあないのだから。”

 それでも、七郎次としては十分に欣幸だと思えてしまう。ああ勘兵衛様も変わりつつあるのだなと。已
(やむ)なくてという形ででもいい、自分のではなく誰かのでもいい、将来(さき)のことを考えるようになられたのだなと。そうと思えば、何だか嬉しくさえあって。

 「…何を笑っておる。」

 無機質な計器の居並ぶ管制盤くらいしか同座してはいない、殺風景なばかりの操舵室。窓からにじみ入る陽の明るさに、それらの冷たさが相殺されてゆく中で、一際華やいでいるのが、さすが、癒しの里で一、二を争う名物幇間だっただけはある美丈夫の花の顔容
(かんばせ)。色白な細おもてが、端正なまま柔らかく微笑んでの甘くとろけたのは、心からの感情が温かく添うていたからで。

 「私では動かせなんだ勘兵衛様の頑迷さ、
  久蔵殿には懐柔できたのが、本当に口惜しいことでございます。」

 口惜しいと言いながら、なのに相変わらず、目許口許に浮かぶは甘露なまでの麗しい笑みばかり。大元の頃合い、こたびの戦さに取り掛かる前へまで話を戻してみても。七郎次には、ついて来よとも仰せにならなんだ御主であり。
「私が蛍屋にいること、御存知でありながらお運びにならなんだのは、私へは“もう侍は捨てよ”と、そうと思ってらしたからなのでしょう?」
 皮肉なもので今ならば、自分と久蔵とを比すればよくよく判ること。ご自身は刀にしか生きられぬ身。故に、再び逢うこともなかろうと、逢わないために七郎次の居場所を探し、確かめておいた勘兵衛なのであろうと思われて。

  ―― 相も変わらず、残酷なほど優しいお人。

 あの大戦中もそうだったように。御主のためならと頑張れもした、死なずに生き延びよと言われたからこそ、どんなに不安に駆られても歯を食いしばって生きて来たっていうのにね。

 『庇を貸してはくれまいか。』

 昔日と変わらぬ重厚なお姿のまま、やっとお逢い出来た歓喜を噛みしめる暇を下さりもせず。自分はこれから難しい戦さへ臨むとしか仰有らない。街の外への抜け道を訊いて、されど付いて来いとは仰有らない。ずっとずっと忘れずにいた御主も侍であることも、全て捨てよと、お主は此処におれと仰せも等しいお言いようが切なくて。結局は自分から“お供します”と申し出ていた。だっていうのに、

 「久蔵殿へは“欲しい”とあからさまに仰有られたそうではありませぬか。」
 「…本人へは言うてはおらぬ。」

 否定はせぬのへ、それがちと口惜しいからと。言いつつ、なのにやっぱり微笑っている端正なお顔をしみじみ眺め、

  “…言うようになったものよ。”

 おやおや? 御主の側でも何かしら。この心優しき元・副官殿へ、思うところがない訳ではないらしい。そっちのお話は、また後日vv





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  *結局一体どの辺が“さくら”なのかという章になっちゃってますね。
   キュウのシチさんからの親離れが、
   前説だけでこうまでかかると思わなかったもんで…。
(苦笑)
   もちょっとかかりそうなのですが、
   よろしかったらあと少しお付き合いくださいませ。

  *↓小説版のネタばれ注意。↓

   イツフタのお二人は、小説版だと、
   戦闘中に斬艦刀をへし折られての生き別れになったらしいとの、
   何とはなくの経緯が書かれておりまして。
   でもそうなると、
   シチさんを生命維持装置に入れて逃がしたのはもしやして…? と、
   どっかに書いたのと矛盾しちゃいますので。(おいおい)
   ウチではそこいらは暈したまんまで通させていただきます。
   相変わらずのご都合主義で申し訳ありません。


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